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東京家庭裁判所 昭和47年(家)13344号 審判

申立人 萩昌子(仮名)

相手方 浜中安治(仮名)

主文

相手方は、申立人に対し、財産分与として、六、八二八、〇〇〇円を支払え。

理由

第一本件申立の要旨

申立人と相手方は、昭和二八年一二月六日、結婚式を挙げ、昭和二九年一〇月二日婚姻の届出をした夫婦であつたが、昭和四六年四月五日協議により離婚した。双方間に、昭和二九年九月六日、長女かおりが出生した。

相手方は医師であるが、昭和三〇年頃、女中として使つていた斉藤みつとアパートに同棲して申立人のもとへ殆ど帰らず、同女と別れると今度は自分の患者であつた神山さわ子(現在相手方と正式に結婚している)と同棲し、その間に相手方が勤務する病院の看護婦ら数名とも関係を持つなど猟色的行為に終始し、また別居している申立人および長女かおりには殆ど何らの経済的援助もせずに放置し、このため生活に窮した申立人は看護婦および助産婦の資格を活かして病院に勤務し、夜勤の多いこれらの仕事の重圧に耐えながらかおりを養育して来た。

昭和四六年に至り、相手方は申立人に対し、充分な財産分与をしかおりの生活費も負担する、申立人の離婚後の生活も保障するなどの条件を出して離婚を懇望したので、相手方の帰るのを待つだけの一八年間の婚姻生活に疲れ果てていた申立人は、相手方と神山さわ子との間の子である二児が非嫡出子として肩身の狭い思いをしていることを思い、自分が身をひいて皆が幸になるならと考え、相手方の申入を承諾した。相手方は、同年四月五日、正式に協議離婚の届出をなし、同日、それまで同棲を続けていた神山さわ子と婚姻の届出をした。しかるに、その後相手方は財産分与の具体的話合に誠意ある態度を見せないので適正なる審判により財産分与を得るべく本件申立に及ぶ。

第二当裁判所の判断

1  本件関係戸籍謄本、東京○○保険病院および○○総合病院の各回答書、登記簿謄本、課税台帖謄本、納税証明書、○○組合中央金庫および中央○○信用組合の各回答書、貸付金元帖、家庭裁判所調査官針谷重威作成の調査報告書、相手方から当職宛書簡、ならびに、申立人および相手方の各審問の結果を総合すると、次の事実が認められる。

(1)  当事者の婚姻および離婚に至るまでの経緯

申立人(当四五歳)と相手方(当四四歳)は、都内の同じ病院に勤務する看護婦と医師の関係にあつたところ、昭和二七年頃、相手方が申立人の傷の治療に当つたことが機縁で恋愛関係に進み、昭和二八年一二月六日、東京で結婚式を挙げ(ただし、婚姻の届出は昭和二九年一〇月二日)。当時、相手方は○○諸島の○○島にある○○診療所に勤務替していた関係から、同月八日、申立人と相手方は同島に渡り、同診療所別棟で婚姻生活に入つたが、間もなく妊娠した申立人は相手方の了解を得て、昭和二九年七月頃、出産準備のため帰京し、目黒区内の相手方両親(以下義父母と記す)のもとに身を寄せ、同年九月六日、長女かおりを出産した。

同年一〇月頃、相手方が山梨県○○町の某医院に勤務することになり、家族三名そろつて同町に転居した。その際、相手方は、申立人の帰京後○○島で雇つた女中斉藤みつを引き続き女中に使うという名目で同行したが、間もなく相手方と同女との間に在島当時から情交関係があり、それが転居後も続いていることを申立人が知つたため、夫婦間に喧嘩口論が絶えなくなつた。申立人は再三にわたり同女との関係を清算するよう相手方に求めたが、相手方はこれを無視し却つて半ば公然と同女との関係を維持するありさまであつたため、昭和三〇年春、申立人は義父に促されて長女かおりと共に○○町を引きあげ、義父母方に同居し、暫くの間義父の営む医院業務を手伝いながら生活の世話を受けていた。一方、相手方は申立人が去つた後間もなく都内の病院に勤務先を替えると共に、斉藤みつと都内のアパートに同棲していたが、その一方では勤務する病院の看護婦ら数名とも情交関係をもつていた。

このような相手方の態度に耐え切れなくなつた申立人は、昭和三二年頃、当庁に調停を申し立てたが、調停委員や義父母に離婚を思いとどまるよう説得されてこれを取り下げた。しかし相手方の態度は一向に変らず、昭和三二年秋頃、斉藤みつとの関係を清算した前後から、今度は神山さわ子と同棲を始めて申立人のもとへ帰らず、しかも相手方から申立人および長女かおりへの生活費の送金も全くなかつた。このため申立人は、昭和三三年頃、事実上義父母に長女かおりの身の廻りの世話をみてもらうことにして、義父母宅付近のアパートに移り住み、助産婦兼看護婦の資格で病院に再就職した。

相手方は勤務医をするかたわら、昭和三三年八月頃から、世田谷区○○に借家し、同所で夜間診療のみの耳鼻咽喉科医院を開業していたが、昭和三四年秋頃、神山さわ子との関係をきつぱり清算する等約束して申立人に同居するよう求めたため、これを信じた申立人が長女かおりを伴つて相手方宅に復帰し、相手方の夜間診療に看護婦として協力する生活が始つた。ところが、相手方はその後も相変らず神山のアパートに通つて情交関係を続けており、昭和三五年春頃には、申立人が義父母宅へ行つている留守中、同女が相手方宅に荷物持参のうえ上り込むに至つたことから、僅か六か月足らずで再び申立人は相手方と別居せざるを得ず、申立人の生活は上記の同居復活前の状態に戻つた。

昭和三七年(月日不詳)、申立人は長女かおりを義父母方から完全に引き取り、当初は民間アパートに、次いで昭和三八年七月からは申立人の勤務病院付属の寮に母子二人の協同生活を始め、夜勤の多い看護婦の仕事に従事しながら長女かおりを監護養育していたが、相手方はかおりの学校納付金等(小中高校とも私立学校。中学生時において月額平均八、〇〇〇円位)を負担するのみで生活費の送金は全くなかつた。

相手方と神山さわ子はその後同棲を続けていたが、昭和三四年一二月二二日既に(長男)新一が、同棲後の昭和三九年二月八日に(長女)宏子がそれぞれ出生し、昭和四〇年一一月二日、相手方はこの子らを認知した。そして、相手方は、昭和四六年に至るや、申立人およびかおりに近づき、新一が中学進学に際し非嫡出子たることから私立有名校の受験で不合格になつた旨話してその同情を得たうえ、申立人には充分の財産分与をするし離婚後の生活も保障する旨約する等、甘言を弄しつつ申立人に対して離婚を申し入れ、申立人の同意を得て、同年四月五日、協議離婚の届出をすると共に、同日、神山さわ子との婚姻の届出を済ませた(しかし、申立人が離婚後財産分与に関し具体的な話し合いをしようとしても相手方は殆どこれを無視した。)

(2)  当事者双方の経済状態

申立人は、昭和三三年頃から助産婦兼看護婦として病院に勤務し、数か所転々した後、昭和三八年七月二二日、東京○○保険病院に上記資格で就職し、ほぼ八年間同病院に在勤していたが、相手方との協議離婚後、相手方の上記約束を信じて、昭和四六年四月一六日同病院を退職した(当時の月収八三、〇〇〇円、退職金五二八、〇〇〇余円)。そして相手方の提供する△△診療所(後記参照)の一部に転居したが、相手方は同診療所内の掃除その他で申立人を家政婦代りに使いながら一日二〇〇円の食事代(二人分)を渡すのみで生活費にこと欠いたため、申立人は前記退職金をとり崩してこれに当てざるを得ず、間もなく相手方が財産分与の話合すら拒否する態度に出たため、同年六月一日から医療法人○○会○○総合病院に就職し、昭和四七年一二月一日まで同病院に勤務した。その後一時腸閉塞症で入院治療を受けたが間もなく治癒したので、昭和四八年二月一日から、○○病院産婦人科に前記資格で勤務し現在に至つているが、月収は約九万円である。申立人には他にとりたてて資産はない。

相手方は、昭和三〇年春頃から社会福祉法人○○病院に医師として勤務し、昭和三三年八月から東京都世田谷区○○に借家し、五〇万円程の資金(借入金)を投入して耳鼻咽喉科○○医院を開業し、夜間のみの診療に当つていた。そして、昭和三五年四月、前記病院を退職し、同所付近の内科医院跡に借家替して本格的に普通診療の医院を始めた(新規開業のため五〇万円を借入)。同医院の営業はその後順調に発展し、昭和四四年春、相手方は医院に利用していた建物およびその敷地(宅地二〇一・六五平方メートル)を買取り、さらに昭和四五年には旧建物を取毀して同所に鉄筋三階建のビルを建設し、同年一二月以降同ビルで医院を経営していた。また、相手方は、昭和四一年一一月、川崎市高津区○○に二階建アパート一棟を借り受け、これを改造して階下部分を「△△診療所」とし午後の診療を同所で行うとともに、二階部分はアパートとして転貸している。

上記相手方所有の不動産の昭和四六年度における固定資産税課税上の評価価格は、宅地が六、一一八、四〇〇円、建物が六、〇二六、八〇〇円とされている。その他相手方は自家用乗用車(トヨペットコロナ)一台を所有する外、医院経営(△△診療所を含む)上年間一、〇〇〇万円ないし一、二〇〇万円の収入と、校医としての給与所得が昭和四七年度において約二七万円あつた。他方、相手方の離婚時における負債は、各種金融機関に合計約二、〇〇〇万円の借入金残債務がある外、医療器械の売買代金債務が若干あつた。

(なお、相手方は、本件審判係属中の昭和四八年五月、前記医院および診療所をいずれも閉鎖して廃業した。相手方は、これらに使用していた建物を改造して身体障害者を対象とする福祉施設に改修し、同年九月から、メディカル・カウンセリングを行う旨述べているが、その営業の実態並びに収益性は明らかでない。)

2  ところで、離婚に伴う財産分与は、夫婦が婚姻中その協力により蓄積した実質上共有の財産を清算し、かつ、離婚後当事者の一方が生活に困窮することが予測される場合にはその当事者の生計の維持をはかることを主要な目的として、金銭その他の財産的な給付を行うものであつて、婚姻破綻についての責任の存否とは直接関係がない。したがつて、破綻につき無責の当事者が、有責者に対し、離婚のやむなきに至つたため蒙つた精神的苦痛を慰藉すべきことを求めるには、財産分与とは別に、不法行為を理由とする慰藉料請求権を行使することができるのである。しかしながら、このことは、上記二種の請求権を峻別し常に別個の手続で審理判断されねばならないということまで意味するものではない。財産分与請求権につき規定した民法七六八条は、その三項で、当事者双方がその協力によつて得た財産の額「その他一切の事情」を考慮すべきものとしているが、ここでいう「一切の事情」とは慰藉料支払義務の存否ならびにその程度の判断を基礎づける事情の全部又は大部分をも含まざるを得ず、従つて少くも末だ当事者が慰藉料請求権を行使しておらず、かつ、財産分与の審判手続において特に慰藉料を除外してこれを求める趣旨を明らかにしていない限り、家庭裁判所は財産分与の額およびその方法を定めるに当つて慰藉料的要素を有する金銭給付を付加若しくは減じてこれを形成判断することができるものと解するのが相当である。

尤もこのような趣旨で財産分与がなされたとしても、当事者の有する慰藉料請求権は、そのこと自体で当然に消滅するものでなく、さらに別途不法行為を理由として離婚慰藉料の支払を求める訴を提起することを妨げられないのであるから、家庭裁判所は財産分与の審判の理由中において慰藉料たる性質を有する金銭を付加又減じたか否か、又その額を明らかにする必要があることは言うまでもない。

かかる見地から本件をみるに、当事者双方の主張ならびに提出の全資料から、本件当事者間で未だ慰藉料の援受された事実はなく、かつこれを請求する訴の提起もないこと、申立人はむしろ積極的に慰藉料的要素をも加味して財産分与額を決定すべきことを主張しているので、以下清算的要素、扶養的要素および慰藉料的要素に分けて順次これを検討してゆく。

(1)  清算的要素

前記認定事実によれば、相手方は申立人との婚姻後、固定資産税課税上の評価価格にして一、二〇〇万円を超える不動産等相当多額の財産を取得しているが、これらは申立人との婚姻が破綻に頻し夫婦生活の実体が殆ど失われた昭和三五年四月以降に、相手方の医院経営上の手腕才覚と、恐らくは現在の妻さわ子の協力によつて蓄積したものであつて、申立人はこれら財産の蓄積に直接寄与貢献したものとは認められないから、これらを財産分与における清算の対象とすることはできない。

しかしながら、相手方は、昭和三〇年春以来の別居期間中、申立人の生活費は勿論長女かおりの養育費についても、そのうち学費を学校に納付するのみで殆ど負担せず、これらは申立人が病院勤務上得た収入を以て充てられていたのである。本来、婚姻から生ずる費用は、夫婦がその資産収入等経済力に応じて公平にこれを分担すべきものであり、夫婦の一方が他方及び未成年の子に負うべき扶養義務は、自己と同一の生活程度を維持させるに足るものであるべしとする、いわゆる生活保持の義務であるところ、相手方は医師として標準的家庭以上の収入を得ていながら、別居期間中、申立人ら妻子に要した婚姻費用につき我関せずの態度をとり続け殆どその分担義務を免れていたことにより、自己と対比し申立人らを低劣な生活環境に放置してきたのであつて、前記の相手方資産は、いわば、申立人ら妻子の犠牲の下に形成されたと評されてもやむを得ない。このように、夫婦の経済的財産的義務が履行されないまま離婚に至つた場合は、当事者間に債権債務が残存しているとみなし、財産分与の手続においてその清算を図るのが相当である。

そこで、相手方が申立人と協議離婚するまでの間本来負担すべきであつた婚姻費用の分担額(長女かおりの学費を除くものとする)如何を以下において検討する。

本件においては、別居期間が一六年の長期にわたつており、そのため申立人および相手方の収入額の推移や、その時々における生活費以外の必要出費額等は必ずしも明確になつていないが、前記認定の間接事実を健全な社会通念に照らしながら総合的に判断することとする。

先ず、昭和三〇年春(ただし算定上同年四月とみなす)から昭和三五年三月までの期間を第一期とする。この期間、相手方は勤務医をしており、昭和三三年八月からは五〇万円の借入金を資金に夜間診療のみの医院を開業していること、申立人は当初義父母方において生活上の世話を受けていたが、昭和三三年頃から助産婦兼看護婦として職に就き一定の収入があつたこと、長女かおりは事実上義父母が養育していたこと、その他諸般の事情を考慮すると前記の分担額は、全期間(約六か月の同居期間を含むので、別居月数は五四か月)の平均月額にして八、〇〇〇円、合計四三二、〇〇〇円と認めるを相当とする。

次に、昭和三五年四月から昭和三七年一二月(申立人が長女かおりを完全に引き取つた時期はこの時点とみなす)までを第二期とする。この期間、相手方は本格的に医院経営を始めており収入も増加したと推認できるが、その他の事情は第一期と同様であること等を考慮すると、前記分担額は全期間(三三か月)の平均月額にして一二、〇〇〇円、合計三九六、〇〇〇円と認めるを相当とする。

最後に、昭和三八年一月から昭和四六年四月までを第三期とする。この期間、相手方の医院経営は順調に発展し、離婚時には、相手方は毎月八〇万円ないし一〇〇万円の収入があり、このうち負債返済、諸税の納付、医院経費に相当額まわるとしても月々生活費にあてうる金額は三〇万円位に達していたこと、申立人は長女かおりを義父母から引き取り養育していたこと、申立人と相手方の婚姻はこの期に入る頃に完全に破綻したと推認されること、その余の事情は第一、二期と同様であること等を考慮すると、前記分担額は全期(一〇〇か月)の平均月額にして四〇、〇〇〇円、合計四、〇〇〇、〇〇〇円を下らないと認めるを相当とする。

以上、第一ないし第三期の各金員を合算すると合計四八二万八、〇〇〇円となる。

(2)  扶養的要素

前記認定事実によれば、申立人は健康で、かつ、助産婦および看護婦の資格を有し、昭和三三年頃から現在に至るまでほぼ一貫して病院勤務を続けてきた有職婦人であつて、現に月収約九〇、〇〇〇円を得ているのであるから、離婚

後相手方が申立人の生活を維持するために一定の財産給付をする必要はないというべきである。

(3)  慰藉料的要素

前記認定事実によれば、申立人および相手方の結婚生活は、内縁期間を含めると一七年四月の長きに及んでいるが、曲りなりにも夫婦らしい協同生活を営んでいたのは挙式後の僅か二年数か月と昭和三四、五年頃の約六か月にすぎなく、殆どの期間双方は他人同様の別居生活を送つていたものである。就中、昭和三五年春頃、相手方の現在の妻さわ子が申立人の留守中相手方住居に乗り込み、いわば正妻たる申立人を追い出すごとき挙に出てその後同所に居すわり、申立人をして再び別居を余儀なくさせ、その後は時の経過と共に申立人ら夫婦の円満な同居復活の可能性が薄れて行き、昭和三七年、申立人が義父母のもとから長女かおりを引き取つた頃には、申立人自身も婚姻の破綻を自覚せざるを得ない心境に立ち至つたものと推認される。かかる状態に陥つた原因は、相手方が結婚後一年足らずのうちに斉藤みつと情交関係をもち、その後同女と同棲する一方では他の女性とも親密な関係に走り、さらに斉藤みつとの関係を清算した前後頃から今度は神山さわ子(現在の妻)と情交関係に進むなど、相手方が何ら反省することなく性的に放恣な生活態度を続けていたこと、加えて、昭和三四年秋頃には、異性問題の清算を約して申立人を自宅に迎え入れながら、陰では相変らず神山との情事を重ねて前記の事態を招き、結果的には申立人を自己の医療業務に利用するだけに終らしめた相手方の著しい背信的、利己的行動にあるといわざるを得ない。本件資料を検討すると、申立人にも家庭の主婦として至らぬ点(性格がきつい反面軽率に行動すること、無責任な発言がみられること等)が窺われるが、これが夫婦間の決定的不和を誘発せしめたとの事情は認められず、相手方の前記諸々の行動態度等に比べればとるに足りない。

以上要するに本件当事者の婚姻が破綻したことの責任は専ら相手方にあるというべく、申立人が相手方と離婚するのやむなきに至つたことから重大な精神的苦痛を蒙つたことは明らかであるところ、前記認定の申立人および相手方の年齢、職業、婚姻継続年数、相手方の不貞行為の態様その他本件にあらわれた諸般の事情に照らせば、申立人の精神的苦痛は、二〇〇万円の支払をもつて慰藉すべきものと認めるのが相当である。

第3、結論

以上述べたとおり、相手方は、申立人に対し、清算的意味において四、八二八、〇〇〇円、慰藉料的意味において二、〇〇〇、〇〇〇円、合計六、八二八、〇〇〇円を離婚に伴う財産分与として支払うべきである。よつて、主文のとおり審判する。

(家事審判官 田中宏)

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